戦隊ヒロインBLOG

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2009年07月02日

科学と人間 【スーパー戦隊シリーズ前史その69】

科学と人間

img_359572_54408591_5.jpg「鉄人28号」の頃から一貫している「科学の力を善用するのも悪用するのも利用者の心ひとつで決まる」という横山光輝の醒めた世界観はこの「バビル2世」で改めて明確な形で示され、この後のヒーロードラマ等に大きな影響を及ぼしていく。
奇しくもこの「バビル2世」という漫画の連載が始まった1971年はTBSで「仮面ライダー」の放送が始まった年でもあるが、「仮面ライダー」における敵組織ショッカーも科学の悪用によって改造人間を作り出して世界征服を企む組織であった。いや、これは奇縁というよりも、石森章太郎をはじめ、この公害問題などが懸案となっていた時代に生きていたクリエイターならば「科学の悪用」というテーマに着目しないほうが珍しかったともいえる。
ただ、普通はそれに対して例えば偉大なる夢想家である手塚治虫の「鉄腕アトム」のように「科学の善用」で対処していこうという発想になる。手塚の弟子筋の石森章太郎の「仮面ライダー」も基本的にはそういった発想の作品である。ただ「仮面ライダー」の場合、正義の味方であるはずの仮面ライダーの能力もまた、もともとはショッカーの悪の科学によって作られた異形のものであるという点で一種の原罪を背負っており、そこに「科学」(そしておそらく「近代」「戦後」)というものに対する屈折した心情が秘められており、主人公は葛藤していく。

img_1137637_20144986_1.jpgとにかく「仮面ライダー」という作品において最も斬新だった点は、ヒーローである仮面ライダーも敵怪人も全て「異形の改造人間」であったという点である。それまで等身大の敵でここまでハッキリとした異形の敵というものはあまり存在しなかった。「赤影」の敵忍者は怪しい服装をしており人間離れした能力を使ったり怪獣に変身したりもしたが基本的には人間の姿をしており「異形」とまでは言えなかった。また単に怪物じみているというだけならばウルトラ怪獣などがおり、その中には人間サイズのものもいたが、それらはもともと人間とは別種の生物であったので、こういうのは厳密な意味では「異形」とはいわない。人間であるはずなのに醜悪な容貌となっているものを「異形」というのだ。
02.jpg「仮面ライダー」においてはもともとは人間であった者が科学の悪用によって化け物じみた醜悪な姿、すなわち「異形」の姿に変わっているという点が斬新で、科学の使用によって美しいものが生まれるのではなく醜いものが生まれるという発想が当時話題であった公害問題とも重なって、科学というものの持つ「原罪」を象徴的に強調していた。正義のヒーローである仮面ライダーもまたそうした原罪を背負うショッカーの異形の改造人間であり、そこに主人公の葛藤がある。それは頭は正義を行おうとするのだが身体は醜い化け物であるということからくる葛藤である。科学を善用しようとする心と、科学の悪用そのものである身体との落差、分裂が彼を苦しめるのだ。
「仮面ライダー」の場合、これが重要テーマであったのだが、この主人公の葛藤のせいで作風が暗くなりかえって人気が出なかった。そこで人間の姿から異形の姿への変身が当初は風圧を受けての受動的なものであったのが「変身ポーズ」の導入によって能動的なものに変わったのをきっかけに、異形の姿に対する葛藤というものが薄れていき、主人公が素直に異形の姿でありながら正義の心に従うようになっていったことによって作風が明るくなっていき、それ以降、人気が出るようになったのである。つまり最終的には正義の心が自らの「異形」を受け入れ、一応はアトムのように「正義」と「科学」は矛盾しないものとして受容されたのである。

61Fra4DLxbL.jpg横山の「鉄人28号」や「バビル2世」においてはそうした「仮面ライダー」初期のような屈折や葛藤は見受けられない。かといって「変身ポーズ」導入後の「仮面ライダー」のように「正義=科学の善用」を素直に肯定していたわけではなく、むしろ全く逆である。横山は最初から「科学」というものを突き離して捉えており、そもそも「科学の善用」に対して「仮面ライダー」のように過度の期待はしていないからである。
いや、「仮面ライダー」初期は「科学の善用」への期待はさほど大きくなかったのであろうが、横山漫画の場合はもっと徹底しており、それはむしろ科学の善用に対する期待が全く無いという印象である。それぐらい「科学」というものに対して醒めている。だから「仮面ライダー」のように「科学の善用」への対比として「科学の悪用」の醜悪さを極端なまでに強調するために敵怪人をおぞましい異形の姿にまでする必要も無かったのだといえる。
つまり、科学というものの善用と悪用の間で主人公が分裂、葛藤に悩まされることがない。ベクトル自体が善悪方向に生じていないのだから分裂のしようがないのだ。これが「仮面ライダー」の変身ポーズ導入以降とは全く違った意味での作風の明るさ、何やら透徹し諦観したような妙な明るさを醸し出しているのである。つまり善用されようが悪用されようが所詮は「科学」であり基本的な禍々しさは変わらないのである。
tetujin.jpgそもそも「鉄人28号」の初期の構想は人間によって悪のロボットである鉄人28号が退治される話であった。構図は「人間VS科学」であり、「仮面ライダー」のように異形の改造人間が善悪に分かれて戦う「善の科学VS悪の科学」の構図ではない。「鉄人28号」の初期構想では「人間」が「科学」という禍々しい敵に立ち向かう当事者だったのである。ところが、鉄人28号が想定外にカッコよかったという理由もあったが、読者は普通の人間が戦いの当事者となることを何故か嫌った。これは戦後日本社会が戦争をタブーとする社会へと変貌させられたことと無関係ではあるまい。将来における戦争、戦いは誰か別の代理人(例えば米軍)がやるものであって、日本の普通の国民が戦争に関わるべきではない(関わってはいけない)という考え方である。
そうした風潮に応える形で、横山は人間の代わりに近未来的な「悪の科学」と戦ってくれる代理者として鉄人28号という「科学」「兵器」(もともとは米軍のB-29がモチーフ)を正義の側に置いた。そうやって作者の本心では醒めている「科学の善用」にウエートを置く勧善懲悪の作風を維持してきたに過ぎない。横山は職人漫画家であるからそのあたりの見せかけは非常にスマートであったのだが、本音では「科学の善用」など信じてはおらず、それゆえ、あくまで鉄人28号やジャイアントロボは自らの意思は持たず、人間に操縦される兵器に過ぎず、もし悪人によって操縦されれば悪事を働く危なっかしいものとして描写された。また、操縦者である人間は禍々しいロボットとは距離を置き遠隔操縦に徹した。決してロボットと一蓮托生となろうとはしなかったのである。横山にとって「科学」は危なっかしく禍々しいもの、簡単に言えば「敵」なのである。ただ戦後社会の風潮に合わせて、人間が戦争に加担するという構図にするわけにいかなかったので、仕方なくそうした「科学VS科学」という危なっかしい戦いを描くしかなかったのである。

img_1545329_48405700_0.gifそうこうしているうちに、こうした「科学VS科学」の構図が定着してきて、その基盤の上に石森章太郎などは「科学の善用」と「科学の悪用」の間で葛藤するようになり、そうして「サイボーグ009」が生み出され、その延長線上に「仮面ライダー」が生まれたのだ。これは石森の師匠にあたる手塚治虫が横山と対照的に「人間の心を持ったロボット」である鉄腕アトムを生み出したことからも分かるように、「科学の善用」ということを肯定的に捉える人物であったことの影響も大きいだろう。石森は横山ほどには「科学」を冷たく突き放すことは出来なかったのだ。
しかし横山にとっては「科学の善用」などあり得ないことなのであって、ロボットや改造人間など信用しない。だから石森のように葛藤しない。「科学の暴走を止め得るのは人間の心のみである」というのが横山の信念なのである。歴史漫画への傾倒もそのあたりが関係しているのであろう。科学の力よりも信用すべきは人間が歴史において積み上げてきた教訓や経験なのである。
この「バビル2世」あたりからそのあたりの心情が表面化するようになり、「科学の力を善用するのも悪用するのも利用者の心ひとつで決まる」というこの「バビル2世」の作品思想はそれを明確に述べたものである。そうした思想のもとで「正義の超能力VS悪の超能力」という表面上は勧善懲悪路線をとりながら、更に一歩進んで、「正義であれ悪であれ超能力(科学)の乱用は身を滅ぼす」という設定を導入して、善悪を超えて「科学」の禍々しさを強調するようになっている。こうした文明に対する醒めきった視線はこの後、1970年代の横山のSF作品では顕著になっていく。そして、そうした世界観は後のヒーロードラマやヒーローアニメなどにも大きな影響を及ぼしていくことになるのだ。

majinZ_1.jpgそうした傾向はこの1970年代にどうして横山の中で、そして他の作品でも進んでいったのかというと、それはやはり時代を反映したものであったということなのだろう。それは、同時期に仮面ライダーが作品の根本テーマであったはずの異形性を希薄にして、つまり人間に近づいたことによって人気が出たこととも無関係ではない。また少し遅れて登場したマジンガーZに人間である兜甲児が搭乗するようになったこととも無関係ではない。つまり「科学」という代理者ではなく「普通の人間」が将来における戦いの当事者となることが求められるようになったのだ。「善の科学VS悪の科学」という代理的戦争ではなく「善の心VS悪の心」の戦いが露わになってくるようになったのだ。そして、それは人間にとっての戦いの熾烈化をも意味する。
そのあたりの詳細はまた後で考察したいが、こうした戦いの当事者の「科学」から「人間」へのシフトは、「人間」が「科学」を客観的に見る傾向を強めた。いや、「科学」を客観的に見る傾向が強まった結果、戦いの当事者が「人間」へとシフトしたのかもしれない。あるいは、そもそも戦いの当事者は「科学」などではなく、「人間」の有する善でも悪でもない暴力性そのものだという当たり前の事実に思い至ったからであろうか。いずれにせよ、横山のような「科学文明」(ここには戦後日本や戦後世界そのものも含まれている)への突き放したスタンスが、この時代の流れと表裏一体の関係にあったことは間違いない。
image021.jpgいや、「人間」だの「科学」だのと抽象的な言い方をするのはこの際やめよう。ここにおける「人間」とは「戦後日本人」のことであり、「科学」とは、かつて日本を焼き尽くした禍々しい兵器B-29(鉄人28号)に象徴されるアメリカ、そしてそのアメリカによって作られ守られている戦後日本の科学的な文明、一見合理主義的な社会、その実、アメリカに国防を任せっきりにしている(核兵器を持たない自衛隊は米軍の補完戦力に過ぎない)体制、それが戦後日本における「科学」である。(ちなみにショッカーのエンブレムは悪そうな顔をした鷲が地球を爪で掴んでいるマークだが、鷲はアメリカの象徴である)
要するに「いつまでも他者に戦いを任せていていいのか?」という問いかけがここにはある。それは横山の問いかけであると同時に、この時代の日本人の多くから沸き上がってきた問いかけ、問い直しであった。どうしてそういう問い直しが起こってきたのかについては後で永井豪作品に関連して考察するが、とにかくそういう問い直しが起こってきたからこそ「バビル2世」や変身ポーズ導入後の「仮面ライダー」、そして人間が搭乗して戦う「マジンガーZ」が受け入れられたのである。それは「人間(日本人)よ、自らの戦わねばならない宿命を思い出せ」というメッセージが形をとったものであった。そして、「バビル2世」はそうした「忘れていた宿命に覚醒した戦士が戦う」というモチーフに現代的な意味合いを与えたという意味でも画期的作品であったのである。この画期的なモチーフこそが「地球ナンバーV7」には無く「バビル2世」には存在した決定的な魅力なのであり、このモチーフは「幻魔大戦」とも繋がるのである。そして、ここでキーワードとなるのは「水滸伝」そして「八犬伝」である。
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posted by 戦隊ヒロインBLOG at 21:47 | シリーズ前史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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