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2009年07月03日

四大奇書 【スーパー戦隊シリーズ前史その70】

四大奇書

suikoden.jpg「バビル2世」において注目すべき点は、主人公が特別の生まれついての宿命因子を持っていながらそのことに当初は無自覚で、運命的な導きによって宿命に覚醒していくという点である。これと同一モチーフを持つ重要作品に先述の石森章太郎の「幻魔大戦」があり、更に別の漫画家によって同時期にもう1つ同じようなモチーフの決定的な作品が生まれているのだが、それについては後述する。とにかく、これは昔から神話や伝説ではよく見られるモチーフであるが、その宿命が「戦士としての宿命」となるパターンとしては、シナの古典「水滸伝」が元祖といえる。
この「水滸伝」はシナの四大奇書の1つとされる。「奇」とは「奇妙な」という意味ではなく、この場合は美称であって「優れている」という意味合いで、すなわち「奇書」とは「優れた書物」という意味である。「四大奇書」はシナの元代から明代にかけて俗字体で書かれた4つの優れた長編小説のことである。つまり元来は支配階級ではなく庶民階級が読むような娯楽性の強い物語であるが、シナにおいてはこうした娯楽性の強い文学というものはそれまでは成立し難い状況であった。

何故かというと、唐代の後期から宋代にかけては科挙の制度が敷かれていて知識人はみんな科挙の試験を受けて統治階級に入ることを目指すのが本分であって、そのために儒教の経典や漢詩、歴史の勉強ばかりしており、フィクションを扱ったような俗な文学など見向きもされなかったからである。しかしモンゴル帝国によってシナが植民地化されて元の時代になると、モンゴル帝国はシナ人を被統治階級としたので科挙によってシナ知識人が登用される数が激減し、職を失った知識人たちは仕方なく庶民向けのフィクション文学に手を染めて生活費を稼がざるを得なくなった。
W020080619541257401018.jpgこうして元の時代に様々な庶民向けの娯楽小説が書かれたのだが、その中でも特に人気のあったのが「西遊記」「水滸伝」「三国志演義」「封神演義」の原型となる小説群だった。その後、モンゴル人を北方に追い払ってシナ人王朝を立てた明は科挙を大々的に復活させて儒教原理主義の独裁国家を作ったので知識人は再び科挙三昧の生活に戻り、小説など書かなくなってしまったが、宋代から元代というのはシナの経済が大発展した時代で、明代には酷い圧政が敷かれたが、それでも庶民経済はしばらくは発展し、庶民が実力をつけるようになった時代であったので、元代に知識人によって創作された「西遊記」「水滸伝」「三国志演義」「封神演義」は明代において庶民の手によってまとめ上げられて完成された。
また明代には「水滸伝」の外伝的作品として「金瓶梅」も成立し人気作品となり、明代末期には、「西遊記」「水滸伝」「三国志演義」「金瓶梅」の4つの長編小説をまとめて「四大奇書」と呼ぶようになった。「封神演義」はこれらより一段落ちる作品として扱われたが、この4作品に劣らぬ人気を誇った。

51V3VH2D1KL.jpgシナ社会というのは一貫して皇帝独裁体制であり、それは皇帝が貴族や武将ではなく知識人を官僚として使役する体制の徹底によって成立していた。つまり皇帝を中心とした知識人集団というものが外界と隔絶した特権集団を形成しており、その特権集団以外の庶民階級には知識人というものは存在しない。統治階級と被統治階級は別の国に住んでいるようなもので、その価値観も全く違うのである。
すなわち統治階級を構成する知識人たちは儒教道徳を至上の価値とし、被統治階級の庶民たちはむしろ道教や宗族思想に基づいた祖先崇拝など、土俗的な信仰に価値を見出していた。儒教道徳というと、仁義孝忠など色々あるが、要するに正統なものは善、それ以外は悪であり、正統な行いにこそ力があるという考え方である。一方、道教などでは善悪を超越して鬼神や妖怪、仙人などを力あるものとして崇める。つまりシナの知識人はやたら善悪正統を論じることに五月蠅い一方で、シナの庶民は善悪観念が希薄で力ある物を好み、迷信深いのである。但し、知識人における善悪正統論にしても根本的には特権維持のための方便に過ぎないのであって、あくまで善悪は建前論に過ぎず腐敗は激しい。所詮は御用学問など腐敗していく一方なのである。
kinpeibai1.jpg一言で言えばシナの統治階級およびそれと一体化した儒教知識人にとっての価値観とは「正しいものが強い」のであり、一方、シナの被統治階級たる民衆にとっての価値観は「強いものが正しい」のである。これは表面上は相反しながら実は表裏一体の関係にある。過酷な武力闘争が続いたシナにおいては本質は「力こそ正義」なのだが、逆にあまりに闘争が激しかったために「正義こそ力」という思想を唱えて、権力という「力」を背景にして時の権力者こそがその「正義」であると強弁する知識人を囲い込むことによって権力維持を図るという統治方式が確立されていき、そうした御用知識人以外の市井の知識人の存在というものを許容しない社会が出来上がっていったのだ。

このように知識人は皇帝に掌握されて庶民と関わることがないというシナにおける伝統は少なくとも宋代以降は現代まで基本的には継続している。これが唯一崩れたのがシナが外国の植民地になった元代(清代もシナは満州人に征服されたが満州人はシナに移民してきてシナ人化してシナ風の統治方式を基本的に採用したのであり、外在する別王朝の支配下にシナが組み込まれたのは宋代以降は元代のみ)であり、この時代に本来は交わるはずのない知識人と庶民が交わったことによって、この時期のみに集中してシナにおける庶民向けのフィクション小説の名作が生まれることになったのである。
housin.jpgこうした成立経緯のため、これらの作品は形式としては知識人の能力によって上手に纏められ文学的には非常にハイレベルである一方、その内容は庶民の好みそうな鬼神や妖怪や仙人、それに準じた豪傑や英傑などが善悪や正統を度外視して暴れ回るようなものが多かった。一応は現実のシナの歴史に沿った物語が展開され実在の皇帝や英傑が重要人物として登場する「三国志演義」や「水滸伝」などはそれでもまだ儒教道徳による装飾は施されていたが、「西遊記」や「金瓶梅」「封神演義」などのようなほぼ大部分がフィクションで出来上がっている物語には儒教色は希薄で、道教や仙道などの呪術的な要素が強く、その分、物語の奇想天外度や猥雑度は増している。
ただ、奇想天外で猥雑な伝承だけが豊富にあっても、それがそのまま小説として成立するわけではない。それらを一定の善悪の価値観に基づいて配置し直すことによって初めて小説としての体裁が整うのであり、シナ庶民の生活の中にはそれ以前はそうした確固とした善悪価値観が存在しなかったため、伝承はあっても小説は成立しなかったのである。儒教知識人が庶民に混じって生活した時代である元代において初めてこれらの小説は成立し得たのである。そして、これらの物語が江戸時代の日本に伝わるのである。
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posted by 戦隊ヒロインBLOG at 22:05 | シリーズ前史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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