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2009年07月05日

太平記 【スーパー戦隊シリーズ前史その72】

太平記

godaigo.jpg一方、「太平記」は南北朝時代に編纂された小説で、これは当時は「宋学」といわれた儒教の一派である朱子学思想に基づいて鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての歴史を南朝側を正統とする視点で書いた小説である。作中では史実に沿ったストーリーが展開されているが、作品全体を朱子学思想の名分論が貫き、登場人物たちはその価値観に照らされて正邪に分類されて活写されており、史実をもとに作られたフィクション小説と言っていいだろう。
つまり、この「太平記」という作品もまた儒教知識人によって書かれたフィクション小説なのである。どうして本来はフィクション小説になど関与しないはずの儒教知識人が「太平記」を書くことになったのか。それはもともとシナかぶれであった後醍醐天皇が朱子学の知識人のグループを傍に抱えており、彼らは後醍醐のもとでその知識を政治の場で活かしていこうという志を持っていたのだが、南北朝の争乱の結果、後醍醐は足利氏に敗れて吉野へ落ちのび、南朝を名乗りはしたものの実質的には単なる亡命政府に過ぎず、彼ら後醍醐の側近の儒教知識人グループもその知識を政治の場に活かすどころではなくなってしまった。

09362186.jpgかと言って武力では足利氏に敵うはずもなく、また戦いに際しては彼ら知識人はあまり役にも立たなかった。そこで彼らは南朝こそが正統な政権であるという言論戦に邁進するしかなくなり、そのために鎌倉幕府を滅ぼしたあたりの頃からの歴史(彼らにとっては現代史となる)を朱子学思想によって解釈し直して、いかに南朝が正しく、いかに足利氏が悪辣であるかを描くことにしたのである。だから、こうして成立した「太平記」は彼らにとってみれば「正史」であり、真っ当な歴史書、あるいは政治的文書であった。
しかし朱子学という特定の価値観を中心に据えたことによって、登場人物が正邪いずれも非常に個性的かつ魅力的に描かれて結果的にフィクション小説として素晴らしい出来栄えになったのである。この「太平記」も、もし後醍醐がシナかぶれでなかったら、もし南朝が敗れなければ成立しなかったであろうし、そもそもフィクション小説として作られてもいなかったものであるから、それがフィクション小説として受容されたこと自体、作者の意図していなかったことであり、フィクション小説としての「太平記」というのは、かなり偶然の産物であると言えよう。
この「太平記」に触発されて室町時代から戦国時代にかけて多くの軍記物語が同じような世界観で書かれるようになった。そして16世紀の戦国時代になると各地の戦国大名の下にお抱えの知識人が御伽衆として侍り、政治顧問のような役割を果たしながら「太平記」などの軍記物語や「源氏物語」などの内容を大名や重臣、その家族らに語って聞かせるようにもなったが、江戸時代になって重臣の地位が向上して大名の実権が失われるとこうした御伽衆は不要になり、こうした知識人たちは庶民相手に「太平記」などの軍記物語の辻講釈をするようになり、これが江戸後期には庶民最大の娯楽となる講釈(明治以後は講談という)へと発展していくことになる。

150.jpgその他、戦国時代の庶民の娯楽といえば連歌や能や狂言が主体で、御伽草子といわれる説話集のようなものを読む者もいたが、だいたいは庶民の娯楽というものは大勢で集まって吟じたり謡ったり踊ったりする参加型のものが主体でストーリー性の高いものを鑑賞するような傾向はまだあまり無かった。加えて安土桃山時代になると能の謡の部分のみを独立して謡ったり鑑賞したりする謡曲という芸能が新たに成立し、これは江戸時代を通じて(現在に至るまでだが)庶民の間に大流行したが、これも典型的な参加型の娯楽である。
また戦国時代末期から江戸時代初期にかけて京や江戸で派手で異様な風体で常軌を逸した行動に走る「かぶき者」と言われる者達が現れ、江戸時代初期、17世紀初頭にこの「かぶき者」たちの装いや動きを真似た独特の踊りを当時の流行歌に合わせて舞う「かぶき踊り」を創始して大人気を得たのが出雲阿国という女性で、阿国以b_2_1_a.jpg降、この「かぶき踊り」が「歌舞伎踊り」と言われるようになり、歌舞伎踊りの興業を行う女たちの集団が各地に多数発生し、またそれに対抗して若衆の男の歌舞伎踊り集団も多数発生した。
この歌舞伎踊り集団もまた当初は典型的な参加型の娯楽で、ここにおいては舞踊が主体となっており、演劇的要素は二義的なものであったが、この女性や若衆によって舞踊を主体とした江戸初期の歌舞伎踊り集団は売春業も兼業している場合が多く、17世紀中頃までに儒教道徳に染まった幕府当局によって禁止されて、以後、歌舞伎は男性のみで演劇主体で行うように規制された。
しかしそうなるとストーリー性の高い脚本が必要になるのだが、だいたいそれは当初は能の演目の中で江戸時代以前の時代の歴史的事件を題材としたものを翻案したもの、すなわち「時代物」というものが多かった。それらの出典はだいたい「平家物語」や「曾我物hyogo_01_2.jpg語」、「太平記」あたりである。その後、17世紀終盤あたりになると人形浄瑠璃の戯曲からの翻案が多くなる。

浄瑠璃というのはもともとは謡曲のような語り芸の一種で、御伽草子の「浄瑠璃物語」という仏教的な説話を扇で手や膝を叩く拍子に合わせて語ったものから発達したもので「浄瑠璃」という名はここから由来している。扇を使うあたり落語や講談と似ているが、琵琶法師のような語り芸、謡い芸の一種である。
こうした浄瑠璃の原型は16世紀中頃には成立していたようであるが、16世紀末にシナから三弦という弦楽器が伝わり、これが日本で改良されて軽快な音から重厚な音まで幅広く奏でることが出来る三味線という新たな楽器が生まれたことを受けて、浄瑠璃の伴奏にこの三味線を用いるようになった。そして同時期に浄瑠璃で語られる物語を傀儡師の操る人形芝居で視覚的に見せるという大道芸のスタイルが確立した。
%E8%BF%91%E6%9D%BE%E9%96%80%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80.jpgこの浄瑠璃が江戸時代になってから様々な流派に分かれて発展したのであるが、17世紀終盤になって義太夫節という、「歌い」の要素を極力排して「語り」の重厚さを極めた流派が生まれ、ここにおいて人形芝居という演劇としての「人形浄瑠璃」が生まれることになった。
一般に「人形浄瑠璃」というのは義太夫節のことを言うのだが、この義太夫節の完成にあたっては重厚な内容の戯曲というものが不可欠であった。それを提供したのが近松門左衛門である。近松の戯曲の大半は「平家物語」や「曾我物語」、「太平記」などのエピソードを脚色した時代物で、これらから歌舞伎の戯曲へと翻案されたものも多い。しかし17世紀終盤に近松のような優れた人形浄瑠璃作家が生まれるには、それまでにそれなりの蓄積というものが無ければいけない。それはやはり辻講釈などによって「太平記」などのフィクション文学というものが庶民にも普及するようになった影響も大きいが、それ以上に決定的であったのは仮名書きの書物、いわゆる「仮名草子」という形でそういったフィクション文学が庶民にも普及したことであろう。
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posted by 戦隊ヒロインBLOG at 21:32 | シリーズ前史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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