戦隊ヒロインBLOG

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2009年07月08日

武士の誕生 【スーパー戦隊シリーズ前史その75】

武士の誕生

l2jfjyf5.jpg武士というものは平安時代初期の律令制崩壊期に発生した。律令制というのは国土人民を全て政府の公有財産として管理し、税を再配分して社会運営を行っていく典型的な中央集権システムである。これはもともと戦乱の相次ぐシナにおいて、より強大な国家を作るために編み出された制度で、シナは常に北方遊牧民の脅威に晒されていたので、基本的にこうした中央集権制がずっと維持された。
一方、日本列島は大陸のような戦乱の地ではなく、海に囲まれていたので大した外敵も存在せず、元来はこのような律令制度のようなものは不要であったのだが、シナにおいて律令制を採用して強大化した隋や唐が大帝国を築いた6〜7世紀頃、国家形成期にあった日本は全体的に西日本に偏しており朝鮮半島まで支配下に置いており、朝鮮半島において隋や唐と対峙する羽目になった。その際に隋や唐への対抗上、日本でも律令制を導入しようという気運が生じ、唐の侵攻を受けて7世紀に日本の朝鮮半島における支配地は失われたが、その回復を目標として日本でも8世紀初頭には律令制が整備されるようになった。つまり唐(およびその属国の新羅)を仮想敵国とした戦時体制が律令制の本質であった。
しかし、国力増強のための東国の開発の結果、朝鮮半島の奪還自体がどうでもよいものとなっていき、また唐が弱体化していったために仮想敵国として脅威ではなくなり、その上に日本の中央政府は政争ばかり繰り返すようになり、貴族たちが勢力拡大のために律令制を無視するようになり、律令制の存在意義自体が無くなっていった。そうなると窮屈な律令制など日本人は従わなくなり、ちゃんと税を収めなくなっていき、その結果、中央政府は財源不足となって機能不全に陥り、平安京に遷都した後、9世紀に入ると律令制は崩壊したのだった。


そうなると、律令制下で各地の治安を維持する役目を担っていた中央政府直属の軍隊が無くなってしまい、日本全土は無法地帯となってしまった。そこで各地の有力な農民が自力で武装して自分の土地や財産を自衛するようになり、互いに自前の武装でもって私闘を繰り広げるようになったのだった。
002016.jpgこうした混乱を収拾するために平安京の朝廷は中央で出世の見込みの無い貴族の子弟を各地に派遣して、朝廷の命令で各地の争いの調停をさせた。この貴族の子弟たちが源氏や平氏の先祖にあたるのだが、彼らは軍隊を引き連れて地方に出向いたわけではなく、当初は単なる調停者として赴任したのである。いくら朝廷の権威を背負っているとはいっても、いい加減な調停を行った場合は彼らの調停は不調に終わり、現地の事情を公平に把握して的確な調停を行い得た者の下にのみ武装農民たちは従った。そして大多数の農民が支持した調停に逆らう武装農民は反逆者として彼ら源氏や平氏の子弟たちを戴いた武装農民たちによって討たれた。
このようにして武装農民たちの旗印として担がれるようになった源氏や平氏の子弟たちは出世の見込みのない都に戻るよりも現地に土着することを望み、朝廷に願い出て現地の調停者(武装農民たちのまとめ役)を家門の務めとするようになった。この時期、財源不足の朝廷は朝廷の公務に対して俸給を支払うことを止めて、個々の公務を特定の貴族の家業として割り当て、見返りにわずかばかりの領地を与えて後は自由裁量で運営させるようになっていた。つまり公務のほとんどをアウトソーシングしてしまったわけであるが、こうした動きの一環として、各地の武装農民のまとめ役および治安維持を源氏や平氏の子弟たちに家業として丸投げしたのである。こうして武士団が誕生した。

この平安時代初期に誕生した武士団は、朝廷から給料や経費を支給されていたわけではない。棟梁である源氏や平氏の当主やその一族の者は朝廷の役職や官位を得ている場合も多かったので、その役職や官位相当分の割り当ての領地ぐらいは宛がわれていたが、それは本当に雀の涙のような程度のものであったし、ましてや彼らの配下の現地の武装農民出身の武士たちは朝廷とは全く無関係の存在であった。彼ら武士団は朝廷からほとんど自立した私有財産で自力で運営される武装集団であったのだ。
a281cb96.jpgならば朝廷に反逆して朝廷に取って替わってしまえばいいのではないかとも思えるが、彼らはそうはしなかった。朝廷など反逆するほどの価値も無かったからである。朝廷は彼らの現地の権益に干渉するようなことも無かったし、トラブルの収拾の際には朝廷の名を出せば話はまとまりやすかった。朝廷は邪魔にはならないが利用価値はあったのである。だいたい取って替わろうにも、日本全土を統一的に支配することなど朝廷にすら出来ていないのに、田舎武士が幾らか集まったところでそんなことは無理に決まっていた。それでもあえて反逆した者も平将門など幾らかいたが、やはり失敗した。武士団としては反乱軍などに加わるよりも、討伐軍に加わって朝廷からの恩賞をいただいた方が得なのであった。
そういうわけで武士たちは朝廷からほぼ独立していながら、それでも自らの意思で朝廷に従う立場を選択した。「従う」を古語では「侍ふ(さぶらふ)」と言い、当時は朝廷に従うあらゆる家業の貴族の配下の者達を「侍(さぶらひ)」と呼んだので、この武装農民出身の下級武士たちも自らを「侍」と呼んだ。彼らは実質的には朝廷とほぼ繋がりが無かったので、逆に自らの家門を「侍」と呼称することで箔をつけ、朝廷のお墨付きで地域の治安維持を任じられた立場であるということを家門の誇りとするようになっていった。

01_4.jpgこの武士団が平安時代を通じて次第に実力を高めていき、12世紀末に東国武士団が団結して平氏を滅ぼした後、源氏の嫡流の棟梁を担いで東国に独立政権を作ったのが鎌倉幕府である。鎌倉幕府は朝廷のトップである天皇の権威には従うが、朝廷の行政組織からは全く独立した政権であり、武士の利益を第一に優先した政権であった。鎌倉幕府は朝廷に取って代わったわけではなく、朝廷も同時に存在していたのであり、日本は(特に東日本は)二重政権状態となった。こんなややこしい状態が普通に存在していたというのも、そもそも中央政府が有名無実で、朝廷と幕府の利害がそれほど対立しなかったからである。
しかし13世紀後半にモンゴル帝国の脅威が迫り、幕府主導で挙国一致体制で日本防衛の戦いが展開され、モンゴルの撃退には成功したものの、これを契機に幕府の権力が西日本にも及んで非常に大きくなり朝廷側の武士団の権益と衝突するようになり、更に幕府内部でもその主導的立場にあった北条氏の権力が肥大化して他の御家人集団との軋轢が生じ、これらの武士団の間の様々な紛争が複合的に作用して14世紀前半に鎌倉幕府が滅び、その後、朝廷の分裂や新たに出来た足利幕府の分裂も引き起こして全国で争乱が続いた。ようやくこの南北朝の争乱が収まったのが14世紀末だが、この間、各地の武士団は争乱に乗じて貴族や寺社の荘園などを侵して領地を拡大した。
d-p401.jpgこの頃までには平安時代に武士団を率いていたような源氏や平氏をはじめとする貴族出身の名門武士の家系はほとんど絶えており、彼らの下で「侍」を名乗っていたような下級武士たちの家系が武士団を率いるようになっており、「侍」は上級武士を意味する言葉に変わっていた。
この「侍」たちが率いる武士団の支配する領地が14世紀末までの南北朝の争乱によって拡大すると、旧来の武士団の構成員だけでは拡大した領地全体の治安維持が出来なくなった。それに上級武士たちはその政治権力が増大したことによって都や本拠地に張り付いて高度な行政活動や政治闘争に明け暮れるようになり、領地に土着しての治安維持という武士本来の業務に専念出来なくなった。そこで新たに現地の農民たちが武装して地侍層を形成し、上級武士から領地の管理を委託されるようになった。こうして上級武士は大規模な武士団を配下に置く守護大名となり、その配下の地侍たちが自治農村を経営するようになったが、「自立した農民でありながら地域の治安維持も行う」という本来の武士の定義に照らせば、この新たに武士となった地侍たちこそが真の武士だといえた。むしろ上級武士たちは武士の本分を離れて貴族化していったといえる。

200510_img_5.jpgこのように室町時代が始まったが、15世紀に入って日明貿易が始まるとシナの貨幣が流入してくるようになり、日本でも貨幣経済が機能するようになった。同時にこの頃から地球寒冷化が進行し、農作物の不作が続いたので、自治農村同士のトラブルが頻発するようになり、あまりにトラブルの数が増えたので地侍だけでは収拾出来なくなり、自治農村の農民がみんな武装して自衛に努めるようになった。
争いの件数が増えたのは寒冷化だけが原因ではなく、貨幣経済の浸透が大きな原因であった。それ以前は土地や物々交換のための品物(主に農産物)こそが財産であり、土地を奪うのは容易なことではなかったので、財産を巡っての争いには一定のハードルが設定されていたのだが、銭が財産に置き換えられるようになると、銭や銭を生む利権を奪えば財産を安易に増やせる時代になり、財産強奪のための戦を起こすハードルは下がったのであった。また、寒冷化のために飢饉が起きて農産物の量が減ったので貨幣の価値が上がったので、品物を奪い合うよりも貨幣を奪い合う争いのほうが増えたという事情もある。もっと直截に言えば、「貨幣」なる食糧などとは違いいくらでも無駄に貯め込むことが可能な魔性のものによって人々の欲望が際限なく増幅され、欲得ずくの戦争を大量に引き起こすようになったのである。
24shouzu2.jpgこうして銭を巡って武装した民衆同士が争い合う時代がやってきた。民衆が起こした争いを「一揆」と言うが、この時代の一揆は江戸時代の百姓一揆のようなものとは違い(むしろ江戸時代のものはこの時代の一揆のパロディ的なものである)、ほぼ武力紛争であった。「自立した農民でありながら地域の治安維持も行う」というのが武士だとするなら、この時代、日本の民衆はほぼ全員が武士化していたといえる。こうした武装農民同士の争いに地侍が巻き込まれ、地侍同士の争いに上級武士たる侍や守護大名たちが巻き込まれ、遂には守護大名同士が天下を二分して争い合う応仁の乱が起こって、15世紀終盤には日本は戦国時代の混乱に陥ったのだった。
この戦乱の中で武装した自治農村の農民たちや地侍たちの利害関係を上手に調整し、彼らの利益を実現していく才覚を示せた守護大名は彼らを配下の武士として組み込んだ強固な家臣団を再編成して戦国大名に脱皮していき、それが出来ない守護大名は地侍や武装農民たちにその地位を取って代わられ、そうした下剋上を成し遂げた武士が新たに戦国大名となっていった。武士たちもまた商人化していき、銭を巡って争うようになっていったのである。
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posted by 戦隊ヒロインBLOG at 23:27 | シリーズ前史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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