戦隊ヒロインBLOG

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ
にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログ スーパー戦隊へ
にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログへ
にほんブログ村

2009年07月11日

勤皇思想 【スーパー戦隊シリーズ前史その78】

勤皇思想

1208a_2.jpgそのような朱子学を導入した江戸時代の日本において、徳川将軍がシナ皇帝のような絶対崇拝の対象として扱われるようになったかというと、そうはならなかった。当初は家康もそうなるように構想しないでもなかったのであろうけれど、結局、全国を一元的に支配することも出来なかった徳川将軍がシナ皇帝のような存在になるのは無理であった。しかし、そうなると日本において儒学は何のために存在するのか分からなくなってくる。実際、徳川将軍がシナ皇帝のように絶対崇拝の対象として中心に存在しない限り、統治哲学としての儒学の思想は成り立たないのであり、それが現に中心に存在していないのであるから、17世紀後半には既に儒学の本来の存在意義は失われてしまっていた。
そこで2つの方向性が生じたのである。1つは、徳川将軍の代わりに別のものをシナ皇帝に擬して中心に据えて儒学を儒学らしく再生させることであり、これは要するに天皇を絶対崇拝の対象とする勤王思想の誕生である。これは当初は幕府の官学でありながら有名無実の存在となりかけていた朱子学を日本風にアレンジして維持するための苦肉の策であったと言うべきであろう。
確かに天皇はこの頃においても将軍以上の権威ではあったが、それは神仏習合の伝統宗教における権威であって、シナ皇帝のような政治的権力とは違っていた。天皇というのは平安時代初期の律令制崩壊後は伝統的に(朱子学にかぶれた後醍醐のような例外は除いて)そのような存在であった。政治のような穢れた俗事から遠ざけることによって清浄性を保ち、祭祀王としての権威を保つというのが天皇の権威の源泉であったからである。それを無理にシナ皇帝と同じような天(日本では神)から地上の統治を委任された君主として祭り上げたのが勤皇思想であった。
もちろん単に天皇を敬うだけではなく、その天皇から国政を委任された存在としての幕府の権威を高めることが当初の大きな目的であったのであるが、やはりこれはハッキリ言って幕府にとっては余計なことであったと思う。所詮は建前論でしかなくなっていた朱子学など自然に朽ちさせていけばよかったのである。こんな余計な延命措置をとったために江戸後期にはこれが幕藩体制への不満と結びついて反幕府思想へと発展していくことになるのである。


photo_mitukunikou.jpgそして、もう1つの方向性は、儒学の教義を再構築して日本の実情において必要性のある新たな思想を作り上げることであった。こちらの方は余計なことではなく、特にアイデンティティー・クライシスを起こしていた武士層においては切実な需要のあることであった。
何故、武士のアイデンティティーが崩壊していたのかというと、土地も戦士としての誇りも全て失った武士に唯一残った徳目である「忠」が空虚なものになっていたからである。幕藩体制によって武士に押し付けられた「忠」はシナ儒教における「君主への絶対服従」と同様のものであったのだが、彼らの君主たる将軍や大名はシナ皇帝とは全く異質な存在であり、幕藩体制そのものがシナの中央集権制とは全く違ったものであったので、彼らの「忠」は現実にそぐわないものとなり、空虚化したのである。
では日本においてシナ皇帝に相当するものが天皇であるのなら、武士たちはその「忠」を天皇に向ければいいのである。実際、多くの武士たちが勤皇思想を信奉するようになった。しかし、彼らはシナの官僚たちと違って天皇に直接仕えているわけではないので、現実において「忠」を天皇にぶつけることが出来ない。彼らの直接の主君はあくまで将軍や大名なのである。だから、やはり彼らの「忠」は空虚なものとならざるを得ないのだ。
勤皇思想を形成していったのは幕府の体制側の要請からくるものが多かったので、体制側の人間、例えば水戸徳川家の当主であった徳川光圀などであったが、光圀などはそのために日本の歴史を勤皇思想で解釈し直した歴史書「大日本史」の編纂を行ったりした。その作業の中で光圀は「太平記」において後醍醐天皇に仕えて奮戦した武将として描かれている主要登場人物である楠木正成や新田義貞を「忠臣の鑑」として極端に持ち上げた。これは、彼らが通常ならばあり得ない「天皇に直接仕える武士」であったからである。
kusunoki.jpgまぁ実際には「太平記」の中にはこの2人以外にも多くの武将が後醍醐に仕えているのだが、特にその中でもこの2人を徳川光圀が顕彰したのは、正成が既に「太平記」において主人公的な扱いを受けるヒーローであったということと、義貞に関しては徳川氏が新田氏の子孫を自称していたという事情もあって、徳川氏を由緒正しい勤皇の家門であると主張するためという事情もあったと思われる。
とにかく、この正成と義貞の2人、特に上記の政治的事情をさっ引いて限定すれば楠木正成は、「天皇に直接に仕えて忠誠を尽くす武士」の理想形として江戸朱子学の勤皇思想の中で造形されていったのである。それは正成の実像や「太平記」に描かれた姿とも異なった姿であったが、勤皇思想を信奉しながらも天皇に直接に「忠」をぶつけることの出来ない江戸の世の武士たちに、あくまで勤皇思想の文脈の中でだが、「本来あるべき武士の忠誠の在り方」を示すお手本として、その姿は喧伝されたのであった。
そこにおいては楠木正成はひたすら後醍醐天皇に滅私奉公で仕える忠臣の鑑であり、つまりシナの朱子学的な理想が凝縮されているわけで、これが戦前まで皇国史観において一般的イメージとして流布されていた、いわゆる「大楠公」のイメージの始まりであった。
これも光圀らの思惑では勤皇思想によって幕府の権威を高めようというものであったのであろうが、極端に正成の忠臣イメージを喧伝したのは余計なことであった。後に江戸末期に尊王思想が反幕府思想と結びついた時、この「天皇に忠誠を尽くして武士政権と戦う英雄」のイメージは倒幕運動の志士たちの行動を正当化することに繋がるからである。

masasige.jpgしかし、このように勤皇思想の文脈で作られた「忠臣の鑑」のイメージも、それはあくまで理想的なもので観念的なものでしかなかった。やはり現実の武士たちは正成のように天皇に直接に「忠」を捧げることが出来ないからである。だからこそ江戸後期から末期にかけての真正の勤皇の志士たちはわざわざ脱藩して生活の糧を失ってまでして天皇への忠誠を示す必要があったのである。そこまでしなければ勤皇思想で謂う「忠臣の鑑」には近づくことも出来ないのである。
そんな思いきったことが出来るのは一握りの武士に限られていたので、やはり大部分の武士にとっては「大楠公」は現実的なお手本にはなり得ない。だからそれとは別の「忠」のイメージが必要であった。そうなると、「忠」の内容をシナ儒教風のものから日本の武士の実情に合ったものに変えていくしかない。
ここで注目すべきは、勤皇思想の文脈上の「大楠公」は江戸幕藩体制下における武士の現実的なお手本にはなり得なかった(だからこそその実現のためには体制変革が必要となって倒幕に至った)にもかかわらず、「楠木正成」という武将そのものは江戸期の武士に非常に人気で、等身大のヒーローであったと言ってよいということだ。そしてその人気は勤皇思想とは無縁な庶民レベルにまで及んでいた。つまり、ひたすら天皇に滅私奉公する「大楠公」とはまた別の「楠木正成」像というものがあり、それが一般武士や庶民にまで至る共感を生んでいたということである。
それは勤皇思想で装飾を施された正成像ではなく、原典である「太平記」の正成像に由来するものであった。江戸初期から「太平記」の辻講釈が盛んに行われたのでそうしたイメージは広範に伝播されていたのだ。もちろん、そこにおける正成も「忠臣」であることには違いなかった。現実の正成も実際「忠臣」であったのだから、それはそれで間違いないであろう。
ただ、ここにおける正成像は「忠」の人であると同時に「義」の人であった。そして、実際の楠木正成もおそらく「義」の人でもあったのであろうと思われる。この江戸初期以降の正成イメージにおいて「忠」と「義」が一体化して日本的な「忠義」という観念が生まれてくるのである。ここから「武士道」という新たな哲学が生まれる。
にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ
にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログ スーパー戦隊へ
にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログへ
にほんブログ村
posted by 戦隊ヒロインBLOG at 22:25 | シリーズ前史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ
にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログ スーパー戦隊へ
にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログへ
にほんブログ村
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。