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2009年07月14日

朱子学の誕生 【スーパー戦隊シリーズ前史その80】

朱子学の誕生

こうした中央集権制下の統治哲学としてのシナ儒教の流れの中に朱子学が生まれてくる。実はシナ帝国は漢帝国と後漢帝国が栄えた後、3世紀に後漢滅亡後の三国時代の混乱によってシナ人の人口が激減して、儒教の影響で酷い民族差別主義者になっていたシナの官人たちは周辺民族を人間狩りのようにして連行してきて強制労働させたり奴隷戦士にして使役した。
いや、それ以前からずっとシナ人は周辺民族を迫害し続けており、ここに至って周辺民族の怒りは爆発し、4世紀初頭に北方異民族が大挙して侵攻してきてシナ帝国を滅ぼした。シナ帝国はここで一旦滅びて民族もここで大量の混血が生じて入れ替わってしまい、この後、6世紀にトルコ系民族の隋がシナを再統一してシナ帝国を復興するまでの長い期間シナ大陸は混乱状態が続き、シナ文化は断絶していた。
儒教もこの間、経典も散逸しており、そもそも4世紀以後のシナ人はそれ以前のシナ人とは民族構成自体が違うので、昔の経典を満足に読むことも出来なかった。そのため、隋とそれに続く唐の時代においての儒教というのは主に昔の経典の書いてあることを解読することに費やされていた。そうした儒教を尻目に盛んであったのは戦乱の時代において広まった仏教であり、このシナ仏教が6世紀に日本にも伝来し、その後、日本の伝統的宗教である神道と習合して9世紀頃には独自の宗教を作っていく。

仏教というのは紀元前5世紀のインドで釈迦が開いた「この世界に実体というものは存在しないということを悟り欲望を捨てればあらゆる苦しみから解放される」という教えであるが、その悟りに至るためには「この世界に実体が無い」ということを実感する必要があり、そのため森羅万象の成り立ちを理論的に解明する緻密かつ膨大な理論体系がこの時点で既に千年以上のも間をかけて積み上げられてきていた。これは神道には全く見られなかった大きな特徴であり、宗教というよりは当時の人々にとっては最新の理論科学とでも言うべきものであったので、神道は仏教理論を取り込むことで高次元の宗教に生まれ変わったのだといえる。
これと同じことがシナの儒教においても起こったのである。儒教もまた神道ほどではないにしても、仏教に比べれば緻密な理論性には乏しい宗教だったからである。ようやく経典の整理が終わった儒教は9世紀ぐらいから仏教の影響を強く受けるようになり、単に道徳律を並べたてるものではなく、人間の徳性が生じてくる仕組み(これを「理」という)を追求することに重きを置くようになった。これ以降の宋代や明代の儒教を「理学」とも「道学」とも言う。この理学の流れにおける完成形が南宋の時代、12世紀後半に仏教や道教の理論を儒教に組み合わせて創始された朱子学である。この最新科学ともいえる朱子学が知識人の間で大流行し、儒教は全く新しいものに生まれ変わったのである。この朱子学が13世紀の終わり頃には日本にも伝わり、最先端の学問として後醍醐天皇の周辺にも熱心に学ばれたりしたが、その後はほとんど普及しなかった。
一方、シナにおいては南宋が13世紀後半に滅びた後、モンゴル帝国の支配下においても朱子学は受け継がれ、14世紀後半にモンゴルを北方に追いやって明が建国されると、朱子学は明の国家教学となった。つまり極端な中央集権独裁体制を正当化するための統治哲学となったということであり、ここにおいて朱子学もまた「三綱」が強調されて「五倫」「五常」「四維」などの徳目が形骸化した形式的な御用学問へと堕落し、シナ社会は強権的な不道徳社会となり役人の不正汚職がはびこるようになった。

朱子学はもともとは儒教の古い経典を北方異民族との混血で生まれた新しいシナ人に理解出来るように解釈していく流れの中から興った。そのため、朱子学においては古い時代の経典よりも、それら経典に関して朱子学の創始者の朱子が書いた注釈書の方が重視された。この注釈書で朱子が施した解釈というのは、要するに古い儒教の経典で示されている仁や孝などの徳目というものが生じてくる仕組みに関する解明であり、まず人間はその仕組みを理解しないことには徳を発現することは出来ないのであるから、この仕組みに関する理解を深めることから始めなければならないというのが朱子の主張であった。
これは物の道理である。例えばカレーが食べたいとして、カレーの完成品だけ観念的に思い浮かべていてもカレーは何時まで経っても出来てこない。やはりカレーを作るレシピをまず理解して、それに基づいて然るべき手順で料理をしなければカレーを作ることも食べることも出来ないのである。だから徳が生じる仕組みを理解することは徳を身につけるためのまず第一歩であるといえる。従来の儒教は徳目の内容について一方的に述べるのみで、その生まれてくる仕組みについて述べることはなかった。それでは徳目にリアリティというものがなく観念的かつ漠然としたものになっても仕方なかった。朱子はそのあたりを改善しようとしたのである。
従って、朱子はあくまで徳を身につけるための第一歩として、徳の生じる仕組みへの理解を深めるべきだと述べたのであって、それだけで徳が身につくと言ったわけではない。あくまで仕組みを理解した上で、更に実践を経て徳というものは身につくという考え方であった。その実践としては従来の儒教で主張されていたような実際に徳のある行いを積み重ねていくことに加えて、仏教の禅宗の影響も受けて、静坐のようなものも重視された。これはつまりは徳目を修めた聖人君子の状態というものが仏教で謂う悟りの境地のようなものとしてイメージされていたともいえる。但し、仏教と儒教は根本的には全く正反対の方向性を持った宗教なのであって、これはあくまで儒教に仏教的な論理性や方法論を導入したものが朱子学であるということである。

この朱子学に方法論を提供した仏教(大乗仏教)においても、本来は善行の実践(これを「利他行」という)が重視されていたが、仏教が唐代に体制護持のための宗教と化していくにつれて、善行の実践よりも経典の研究や座禅などの修行の方が重視されていくようになっていた。結局、宗教というものは統治哲学として使われるようになると形式的になっていくものなのだ。そして、そうした流れに対する反動として、実践に重きを置いた流れというものも生じてくる。
シナ仏教においても唐代において主流派の体制護持仏教に対抗して、より地道に日常生活と一体化した修行に重きを置く禅宗の流れが生まれ、それが宋代には日本への伝わった。なお日本においてはそもそも律令制崩壊以降は中央の政体自体が弱体であったので仏教も統治哲学として形式的なものとして凝り固まっておらず、この新たに入ってきた禅宗や浄土宗などが鎌倉新仏教となって、仏教はより民衆の日常に近い実践的なものとなっていった。
一方、シナにおいては宋代になって仏教的要素を取り込んで理学や道学と呼ばれるようになった儒教が仏教に代わって盛んになっていき、特に南宋の時代に生まれた朱子学は多くの支持者を集めた。どうして宋代のシナで朱子学が多くの支持を集めることになったのかというと、つまり体制側の宗教となって形式的になり堕落した仏教よりもマシなものだったからである。しかしもともと儒教こそが体制側の哲学として堕落しまくっていたのだから、純粋な儒教では仏教を超える魅力を持てるはずはない。つまり、体制側の仏教に対する反動として興った実践的な要素の強い禅宗の要素を導入して儒教をリニューアルしたのが朱子学であったということになろう。
このように、南宋の時代に朱子学が生まれた頃には、朱子学はかなり日常的な道徳の実践の要素も有した魅力的な教えだったのである。理論・修行・善行の要素のバランスが程良くとれていたといえる。この良質な状態の朱子学が鎌倉時代末期の日本に伝来し、後醍醐天皇や楠木正成らはこれを学んでいたのである。つまり後醍醐や正成の朱子学はそんなに酷いものではなかった。少なくとも形式主義に流されたようなものではなく、かなり実践的なものであったということになる。だからこそ鎌倉幕府を倒す革命の原動力の1つの要素ともなり得たのであろう。しかしこの朱子学はこの後、日本では大して広まらなかった。それは、日本においてはシナとは違って仏教があまり体制宗教となって堕落していなかったので、実践的な道徳としては仏教である程度は事足りており、朱子学の流行する余地があまり無かったからだろう。

しかし、この朱子学がシナにおいて明の時代になって体制維持のための統治哲学として使われるようになると、途端に形式的となり堕落し、道徳の実践は軽視されるようになり、朱子の書いた注釈書の理論などを理解することばかりが重視されるようになった。そして肝心の道徳の方は従来の統治哲学としての儒教の悪い面が出てきて、腐敗と汚職を正当化するような最悪の状態となっていったのだった。
この堕落した状態の朱子学が明代末期、すなわち江戸時代初期に日本に導入されたのである。日本の政治風土はシナほどには堕落しきったものではなかったので、日本においてはシナほどには酷いことにはならなかったが、それでも江戸時代の政治を停滞させる要因の1つになったことは間違いないといえる。江戸儒学はそれなりに善政も実現しているが、それは朱子学とは別の要素によるものが多い。
このように明において朱子学が堕落していったのは、体制維持のための統治哲学となったことが原因なのだが、明の朱子学者の中には朱子学を立て直そうと志し、朱子学の堕落の原因が朱子学の理論の中にあるのではないかと考えた者がいた。それが陽明学を興した王陽明である。この陽明学が朱子学の堕落に反発して明の一部の知識人に広まっていき、そして朱子学に少し遅れて日本にも伝わるのである。
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posted by 戦隊ヒロインBLOG at 09:55 | シリーズ前史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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