戦隊ヒロインBLOG

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2009年07月23日

二元論の陥穽 【スーパー戦隊シリーズ前史その82】

二元論の陥穽

こうした科学や錬金術の祖といえるのがプラトンの弟子のアリストテレスで、彼は師匠のイデア論を更に整理発展させて「エイドス」と「ヒュレー」という概念で世界を説明した。「エイドス」は「形相」とも言い、事物の性質を決定する要因のことであり、一方、「ヒュレー」は「質量」とも言い、事物を構成する材料のことである。そして事物の実態であり本質であるのは「エイドス」の方であるとした。ただ、現実世界では「エイドス」と「ヒュレー」はそれぞれ単独で存在するということはなく、この2つが組み合わさって事物となっている。
これを人間という事物にあてはめると、肉体は「ヒュレー」であり、霊魂が「エイドス」にあたる。つまり、これもまた霊肉二元論の1つのバリエーションなのである。そしてこれに善悪二元論が合わさる。すなわち、純粋なる「エイドス」のみの存在こそが、超現実世界に存在する「イデア」なのであり、それこそが真の神の正体なのだということになる。そうなると人間は自己の肉体の中に神と同質の霊魂を宿しているということになる。ならば、人間の霊魂を足掛かりにして、この世を「イデア」化すること、つまり「神の世界」へと昇華させることが可能なのではないかと考える者が出てきた。これが錬金術の始まりであり、これがニュートンを経て近代科学を生み出す。

この考え方に基づけば、人間は肉体という穢れはあるものの、その隠された本質は神に等しいのであり、そうした真理に覚醒して霊魂を昇華させれば「人間は神にもなれる」ということになる。そして、その神や霊魂はこの世の由来のものではなく、全く別個の善の世界の由来のものであるので、この悪に染まった現実世界に愛着を持つ必要は無い。真理に覚醒して神に等しい存在となった霊的エリートは、遠慮することなく現実世界を改造し破壊しても構わないということになる。それが新たな神の世界の創造のためであるというのなら尚更のことである。
真の神は彼らの霊魂と繋がったイデア世界の神のみなのであり、それ以外の現世の神々は全て偽物の神であり、悪しき現実世界の神であるのだから、むしろ悪魔である。それはこの現実世界の肉体の縛りに由来する。ならば、そうした悪魔を崇拝する救いがたい者達の肉体を破壊して霊魂のみを救済することは善なる行いということにもなる。また、そうした現世の悪しき神は殺しても構わないのであるから、真の神の教えに覚醒した者以外の文化や文明を破壊しても構わないということにもなる。全てはこの世に「神の王国」を築くために正当化されるのである。このような考え方に基づいて、近世から近代のヨーロッパから世界に向けて侵略や殺戮の波が広がっていったのである。

近代科学も錬金術の延長線上に生まれてきたものであり、元来はこの現実世界を改造して神の世界に作り変えることを目的としたものである。科学ほど物質的なものはなく、霊魂の世界など無縁のものであると錯覚されているが、それは違う。科学は近代以前の物質世界を既に大部分作り変えてきた。そうやって改造した物質世界こそが神の霊魂、すなわちイデアを現出させる器になり得るのである。だから科学が自然界を改造し続ける行為は絶対的に善であると信じられてきたのである。
そう、このように霊魂と肉体を分け、精神と物質を分け、善と悪をくっきり分けて、現実には存在していないものを絶対的な正義とし、それによって現実世界のあらゆるものを恣意的に絶対的な悪と認定し、自らだけを架空の絶対的な正義に寄り添わせて、悪と見なした対象への行き過ぎた残虐行為、破壊行為を正当化するところに、近代科学の最大の欠陥がある。これは現在の環境破壊の問題の根であり、ナチスや共産党、植民地帝国もこの発想から生まれ、そしてまさにショッカーやグラックゴースト団の発想とも同じである。つまり「科学の悪用」である。いや、こうした経緯を見ると、そもそも近代科学というものは悪用を前提として成立したような面がある。当事者は絶対善だと思い込んでいるので悪用とは思っていないのだろうけれど、そのように思い込むこと自体が既に異常であり、悪用に直結するのだということには気づかないのだろう。「絶対的な正義」というものが曲者なのである。

どうして近代科学や錬金術の思想においては「絶対的な正義」などというものが生まれるのかというと、正義や善というものがこの現実世界には無く、人知を超えた究極的かつ本質的な世界に存在するものだとされるからである。だから正義は絶対的であり、人間世界から異議を差し挟むことなど許されない。ただ一握りの真理を知った者のみが決定する「絶対的な正義」に従うしかなくなるのである。つまり正義や善が人間から離れて外部に存在するので、一部の「選ばれた者」を除いた人間にはそれに関する決定権は無いのである。これが正義の暴走を生み、「真の悪」をこの世に現出させることになるのだ。
この歪んだ近代科学や錬金術の思想の原点がアリストテレスの「エイドス」と「ヒュレー」の思想である。現実世界とは無縁の「エイドス」なるものが人間の霊魂と同質であり、隠された真の世界、絶対的な善なる世界である「イデア」と同質であるとする思想である。これは人間の霊魂を絶対善と繋がる存在としつつも、現実世界由来の人間の肉体、すなわち「ヒュレー」を悪と見なす以上、少なくともこの現実世界においては人間という存在は悪によって善が覆い隠されており、悪の力の方が支配的であると考えられることから、一部の覚醒したエリートを除いては、むしろ性善説ではなく性悪説のような捉え方をするものであるといえる。

儒教というのは孟子が性善説を唱えて以降は性善説を基本としており、人間は本来は善なる存在であるとする。逆に人間を本質的には悪なる存在として捉え、刑罰で縛ることで矯正していくべきだとする性悪説の考え方は法家思想を生み、実質的にはこの考え方がシナ帝国を作り運営していった。しかしこのような力のみによる統治では巨大なシナ帝国を維持するのは困難であり、建前として儒教が統治哲学として使われるようになった。だから、シナ帝国における統治哲学としての儒教は表向きは性善説であったが、シナ帝国自体が性悪説に基づいた帝国なのだから、統治哲学としての儒教もまたその本質では性悪説の思想に基づいていたといえる。
そして12世紀に新しい儒教として生まれてきた朱子学は「理」と「気」によって世界が構成されているとしたが、この「理」は「エイドス」に、「気」は「ヒュレー」に酷似した概念である。この世の万物は「気」によって構成され、その「気」の運動性に法則を与えて事物の性質を決定しているのは「理」であるが、これは「ヒュレー」と「エイドス」の定義とほぼ同じである。そして朱子学でも「理」の方が本質的存在とされるが、これも「エイドス」の扱いと同じである。「エイドス」は超現実的世界である「イデア」に通じるが、「理」も「天」という抽象的な超現実世界に通じている。
そして、アリストテレスの哲学から発展した錬金術や近代科学が「エイドス」たる人間の霊魂を昇華させて「イデア」の域にまで高めることによって人間を神とし、現実世界を神の世界に改造しようとしたように、朱子学もまた、「理」を窮めることによって「凡人を聖人に変える」思想であり、それによってこの世界を「徳によって治められた理想世界へと変える」ことを目的とした思想であり、その本質は同じなのである。そして、その結果、かえって傲慢によって真の悪を為してしまうという点も同じである。

朱子学においては、「理」と「気」はこの世界ではそれぞれ単独で存在することは出来ず、人間の心も「理」と「気」によって構成されていると考える。仁や孝などの様々な徳は「理」の部分に含まれ、「気」の部分には欲望が存在する。つまり、朱子学においても超現実に通じる「理」は善、現実に通じる「気」は悪なのである。現実世界否定の善悪二元論が朱子学の本質と言えよう。
この心の中の「気」の部分を無くしていって(つまり欲望を抑制していって)、心を「理」のみに純化することによって凡人が聖人に変身するのである。つまり現実世界における人間存在を悪と見なして否定し、超現実的な心を絶対善として受け入れるべきだというのが朱子学で、これは性悪説の考え方に近い。しかし儒教は本来は性善説であるはずであり、朱子学のように人間の心の中の「気」の部分を悪と見なして切り捨てるような考え方では儒教の本来の教えとはややズレがある。明代の朱子学者であった王陽明はこれを問題視した。
いや実際は儒教は統治哲学として昔から性悪説に基づいて運用されていたのだが、それはあくまで権力中枢部の話であって、表向きはあくまで儒教として性善説を採用している以上、人間の心に善の部分と悪の部分が存在するというのはおかしいのではないかと考えたのだ。人間の心が「理」と「気」によって構成されているとしても、「理」も「気」も共に善でなければいけない。心の「気」の部分は確かに欲望の形で現われてはいるが、それは現実世界に適応してのことであって、その本質は「理」と同じく善であり、「理」と「気」は本質的には同一の存在であると考えたのだ。確かにあくまで性善説に則るならば、このような考え方の方がしっくりくるとは言える。

王陽明がこのように朱子学の在り方について検証を繰り返すようになったのは、明代に入って朱子学が急速に堕落してきていたからである。この堕落の最大の原因は統治哲学として使われるようになったからなのであるが、更に言えば、朱子学が科挙の正規科目となって国家教学となったことが大きな堕落の原因である。
朱子学というのはあくまで徳の高い聖人になるために欲望を排して「理」の原理について窮めていくものであるはずなのだが、科挙に採用されたことによって朱子学を学ぶ目的は単に官吏に登用されて出世するためとなり、個人の立身という欲望を満足させる手段と成り果てた。そのような個人のエゴを優先させる者が聖人になどなれるはずもない。こうして朱子学を学ぶ者は全員堕落の徒と成り果てたのだ。
朱子学の堕落の原因はだいたいこれらで説明はつくのだが、しかし王陽明がこだわったように、朱子学そのものに構造的に問題点があるというのも1つの原因であるとも言える。朱子学が唱えるように人間の心が本質的にはどちらかというと悪であり、絶対的な善や正義が人間の外部の超現実的な世界に存在するというのなら、人間は自らの心で考えるよりも、その絶対善である「理」について述べた朱子の著作をただ読めばよいということになる。こうして朱子学はただ理論を頭に叩き込むものとなり、道徳の実践は疎かになっていった。それに加えて科挙の弊害や統治哲学特有の堕落が加わり、朱子学は全く形式的な学問となり、選ばれた人間のみが聖人を自称して共有する絶対正義を信奉して現実世界を蔑ろにして、民を悪しきものとして過酷に圧政を敷くという悪しき教えとなっていった。これは近代科学や錬金術などの陥った逸脱と同じ性格の逸脱であったが、それは善悪二元論の陥りやすい陥穽であった。
この朱子学の陥った陥穽から脱して、朱子学の本来有していた「聖人になる方法論」という面を復活させようとして明代に新たな教えを打ち立てたのが王陽明の陽明学なのである。王陽明はもともと朱子学者であり、朱子学の本来あるべき姿への復活を企図して陽明学を創始するに至ったわけである。しかし、それは朱子学の側からの迫害を招くことになった。
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posted by 戦隊ヒロインBLOG at 01:16 | シリーズ前史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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